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「20周年記念誌」

イラスト。右手をあげ、案内する直子!

雇用運動20年のあゆみ (長文につき以下の目次をご利用下さい。)

目次

1.ご挨拶

神奈川県視覚障害者の雇用を進める会 会長 新城 直

神奈川県視覚障害者の雇用を進める会は、1977年5月7日に結成され、今年、満20周年を迎えることができました。本会は、当時の横浜市立盲学校理療科の学生の要請に応え、全国に先がけて結成された運動団体です。運動の中心を視覚障害者の雇用課題に絞り、交渉・学習活動等を積み重ねた結果、様々な形で成果をあげました。そして現在では、全国の視覚障害者雇用運動の牽引力としての役割を担うまでに至りました。

しかし、一方では、時代の流れもあって、運動が徐々に停滞し、この数年では、本会の解散問題が大きく取りあげられたのも事実です。最終的には、学生より「なんとか続けてほしい。」との強い声があがり、検討の結果、本会を再出発の決意を込めて、継続することになりました。

このように一口に20年と言っても、運動を進めてきた私たちにとっては、様々なことがありました。交渉にでかけるにしても、家族や職場の仲間に負担をかけ、物質的にも精神的にも多大な犠牲をはらって、運動を進めて来たのです。「なぜそれほどの犠牲をはらってまで運動を続けるのか。」と問われたり、自身に問うこともあります。そんな問いに答えるならば、現在の日本において、「視覚障害者の雇用は運動によってのみ、産み出される。」と考えるからです。「与えられるものではなく、作り出すものである。」と考えるからです。私たちは、広く社会に目を向け、視覚障害者にとって豊かに暮せる社会にして行く。そしてその延長線上には、だれもが豊かに暮せる社会の実現があるからです。また一方、「運動が好きだから。」ということもあります。運動する中でいろいろな人達と出合い、いろいろなことが学べるからです。視野が広がり人として成長し、人生が豊かになるからです。

結成20周年を迎えるに当たり、これまでの私達の運動の歴史を初めて記念誌として今回まとめることが出来ました。20年間で獲得したひとつひとつの事がらについて、その経過から書かれています。ある意味では、日本における視覚障害者雇用運動の歴史とも言えるものです。またこれまで本会の運動に係わって来られた人達の歴史とも言えます。
「怒りの無いところに運動は無い。」と言われます。この記念誌が全国の視覚障害者運動に希望と勇気を与え全国にこの運動の輪が広がることを期待してやみません。

最後に本会の結成と発展に係わって来られた方々に対し、心から感謝申しあげ、ご挨拶といたします。
1997年12月6日

雇用を進める会のあらまし

神崎好喜

横浜市立盲学校であはき(あん摩・マッサージ・指圧・はり・きゅう)を学ぶ学生の発案と、それを支える関係者の協力で誕生した雇用を進める会の歩みは、終始、県民のいのちとくらしを守る共同行動委員会(「いのくら」)の傘の中で他団体と協力し、主に神奈川県を相手にした対行政交渉の運動形態を取ってきた20年間に渡る歴史であったといえる。

時代を区分してそのあらましをみると、まず、第1期は、個別就職運動の時代である。「○○さんを××へ就職させろ!」という要求運動だ。その典型を、神奈川県社会福祉事業団の老人保養所へのマッサージ師採用事例にみることができる。あはきを生かせる職場、要求相手の県の意思が働く職場、公募という制約のない職場。地理的にも通勤可能者が学生の中にいて、本会結成当初における身近な運動、成果のみえやすい運動であり、本会の存在意義を一般会員が知る絶好の運動でもあった。
同時期、同手法で、神奈川県民生部(現:福祉部)への福祉職としての採用も実現した。これも個別就職運動による成果であるが、同時にその後へ続く制度としての障害者雇用の素地をなすものでもあった。

第2期は、制度政策要求の時代である。個別就職運動は、公務員のような公募競争式採用にはなじみにくく、また、制度として障害者雇用を位置付けた方が採用枠は増す。その意味で運動は進化したのである。しかし、この形態の運動は、最前線にいる者にはよくわかるものの、成果の具体性に欠けるため一般会員には身近に感じにくい短所があり、後に陰を落とすことになる。
また、この時期は、国際障害者年を契機とする各種プランの検討、それへの市民参加の黎明期でもあった。本会も、視覚障害者雇用という切り口で積極的に対応していった。いわゆる、参加提言型運動への踏み出しである。こうした運動を通して、「いのくら」内での本会の位置や神奈川県内での本会の位置は高まり、発言力も拡大していった。しかし、同時に、運動にとって贅肉である様々なしがらみや付き合いも増していったのである。

第3期は、共闘の時代である。「いのくら」に結集する障害者団体や労組の障害者組織固有の課題(施設費用徴集反対運動・障害者の高校入学運動・差別的賃金格付け撤回運動等)や交通アクセス問題等に取り組み、本会の運動の間口は広がり、成果も上げ、共闘の必要性も実感できるようになった。
一方、この時期になると、神奈川県の障害者雇用は天井に近付き、大きなエネルギーを使ってもそれに見合う獲得物は取れなくなった。こうした現実と制度政策要求運動の陰のため、運動の原動力である学生の参加が薄らぎ、残念ながら本会の運動はパワーダウンを余儀なくされたのである。

第4期は、活性化模索の時代である。視覚障害者の新たな雇用が以前より減ったとはいえ、神奈川県では毎年安定的採用がある。長年に渡る運動の結果生まれた成果(横浜市の老人ホームマッサージ師等)もある。しかし、それだけでは、一般会員にとって充実感が味わえる運動にはなりえない。そのため、学生に対する啓発が度々行われ、贅肉をそぐ改革も行われた。その総仕上げが今年、1997年の改革である。
本会は、今、20年間の歴史の中で第4期の活性化模索時代にある。身を切ることは苦しい。しかし、結成当初の視覚障害者雇用促進の目的を高く掲げ、大胆な改革に取り組んでいるのである。ローカル団体でありながら全国的にも評価される本会は、結成20年にして果敢に生まれ代わりを図ろうと試みているのである。

雇用を進める会結成と当初の雇用運動

五十嵐光雄(口述) 田中重幸(執筆)

1、結成の経過

まず、理療科の制度が大きく変わったのが1973年、それまで理療科専攻科といって高1から理療課程に入って専攻科2年までという制度だったのが、高3までは普通科とし、それから専門教育を行うという事になって、1973年4月から教育課程改定により全国的に高卒後3年の理療科の制度になった。これからは、中途失明者が多く入ってくるから、これまでの、小、中、高校生と一緒の扱いはやめましょうという事になり、もっと大人らしい活動ができるように組織分離が図られ、それまで一緒だった生徒会の方も分離して、専攻科理療科、保健理療科をあわせて名称を「学生会」と変更した。それから、教職員の方も分離して理療科だけ一つの部屋を持つことになった。これについては相当の抵抗があったが、分離しての第一期専攻科理療科の一年生は19人で人数も多く優秀な学生も多かったこともあり、切り換えてよかったと実感したものである。ただし、初年度の一年生は余り運動をすることはなかったが、2年目、3年目となるにしたがい、だんだんと学生の方も学生会としての固有の問題も抱えながら少しずつ動きだした。
一方、教職員の方も理療科を中心に、普通科やその他の職員もはいって「社会福祉研究会」(社福研)が組織され問題意識が深まっていった。

1976年、4年目の時に学生は1年間就職問題で独自にいろいろと動いたが、時間的限界や組織のつながりのなさ等いろいろな問題で「自分達の力だけでは限界がある、是非協力してほしい」という学生側からの要請が教員の社福研にあり、1977年2月頃から雇用問題を取り組む組織の結成準備が開始された。準備を進める中で、「こういう運動を起こすのだが、おそらく障害者だけで集まっただけでは県に対して力とならない」という考えで、当時、神奈川県地方労働組合評議会(県評)の事務局次長をしていた小野間さんに相談し県評の力を借りることになった。県評には結成の準備会から参加してもらい、教員の社福研と学生会および労働団体である県評と障害者団体として神奈川視力障害者の生活と権利を守る会の4団体が中心となって準備会が組織された。

結成会場は、開港記念会館が横浜の港との関連でふさわしいということになり、1977年5月7日「神奈川県視覚障害者の雇用を進める会」結成総会が開催された。その後、具体的運動の方向性を確立する為、同年6月初めに第2回総会を開催し運動方針等を決定した。
同時に、「視覚障害者の雇用白書」を藤沢の点訳奉仕会青年部の協力により作成し、視覚障害者の雇用実態を明らかにした。次に同年6月の県議会に、視覚障害者の雇用を進める為の請願書を提出し、白書を背景にしながら各会派を回って要請行動を展開していった。

2、「いのくら」加盟への経過

当時、構成団体の一つである県評の常任幹事である野口さん(県評オルグ)と活動を共にする間に県評の主催する「いのくら」(県民のいのちとくらしを守る共同行動委員会)の存在を知り、野口さんより「今後長く運動を続けていくためには「いのくら」に加入した方がやりやすいのでは」との助言を受け加入することになった。
1977年9月になり、障害者雇用月間であるにもかかわらず社会的に視覚障害者の実態が全く明らかにならないということがあり、町に出てアピールしようという考えから伊勢佐木町通りをビラをまきながら、宣伝カーを先頭にデモ行進を行った。そして第1回の対県交渉にはいっていった。

3、本会1期目の交渉経過

このような運動体を組織した以上は何か一つでも運動の成果を実らせないことには組織が崩壊してしまうのではとの危機感があり、かなり積極的な働きかけを行った。具体的に本会として「タマ」(就職希望者)を二人突き付けて、これを雇用させるよう交渉を展開していった。しかし、県側(当時は労働部長)の回答ははっきりせず、「こんなことができないのでは、それでも大福祉県神奈川か」と怒鳴りつけた場面もあった。そうした中で、2月にはいり、突然、田中労働部長から個別の話がはいり、3月には急にめまぐるしく展開し労働部長との詰めを行い逗子と三崎の老人保養所へのあはき師(あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師)としての雇用が決定した。なお、採用された二人は、前年の夏休みに目標を持って保養所での実習を行っており、このことも功を奏したことは確かである。
2年目も具体的な「タマ」を何名かあげて交渉を進めていった。その結果、公的病院へのマッサージ師の採用、神奈川県リハビリテーションセンター七沢老人病院(現:脳血管センター)へのあはき師の採用が決まった。七沢病院の東洋医学科では、県が相当の費用をだしながら晴眼者のあはき師しか採用しておらず、「同じ免許をだしながら晴眼者のあはき師しか採用しないのはおかしい」という点を強く主張した結果、雇用が実現したものである。

また、あはき以外の職種として福祉職での採用の交渉を進め、神奈川県立中央児童相談所への採用が実現した。

このように、個別課題での交渉が1年目、2年目と成果を上げていったが、県側より「今後は一般的な原則でやっていきましょう」という提案があり別枠採用の方式が始まった。別枠方式での初めての採用として、知事部局へのヘルスキーパーと電話交換手採用が第1号であった。

4、その他の課題

雇用の周辺課題として、一般の職業訓練校では、1年間職業訓練手当てがでているが、理療科の場合これが適用にならない為、これに準じたものを考えるよう交渉の場にのせていった。その結果、月額3万円という形で「視覚障害者技能習得援助資金貸付事業」制度の新設を勝ち取った。
一般採用試験での点字受験についても、この頃交渉を進め点字受験が実現した。
しかしながら、関連課題である、障害種別、程度別の雇用については実現できなかった。また、その当時はヘルスキーパーを民間企業に進めるという点についても実現には至らなかった。
当初より相談業務とあはき関係はいけると考えていたため、あはきでは保養所、病院、福祉施設、ヘルスキーパー職種を広げながら一つ一つ課題を実現していった。具体的には、別枠採用制度の中で、視覚障害者にとってどのような職種があるかという交渉の中から福祉施設でのあはき師として、県立の療護施設であるさがみ緑風園への採用と県立厚木病院、県立足柄上病院での採用が実現した。

当時、東京ワークショップの松井先生との連携の中で、視覚障害者の可能性として録音タイピストはいけるのではないかということで交渉課題に乗せ、結果的にはふさわしい人が採用されることになった。これは、やはり個別ではなく別枠採用のなかでの職種指定という形で交渉を進めていったものである。

また、交渉相手は県だけでは駄目なので、政令指定都市にも広げていったことにより横浜市の図書館職員の採用が実現した。関連して、県下37市町村アンケート調査(1978年)を実施したことや教育委員会にも矛先を向け養護学校での実習助手としての雇用も実現できたことなど運動の成果は着実に前進していった。

卒後教育、卒後研修という点から、研修期間の必要性を考え研修センター構想を県側に提案した。「いのくら」交渉の席上、県衛生部に対し「神奈川県としてもあはきの資格を取った後でもいろいろ研修が必要であるし、研究する機関も必要であるから研修センターを作りなさい」ということを提案していった。その結果プロジェクトチームまで出来たが。残念ながらその後の進展は得られなかった。

5、むすび

本会が結成された1977年は自分にとって3つの運動を開始した年でもあった。1つは本会の運動であり、もう1つは、藤沢の長後地区に「ありのみ会」という障害者とその家族や地域の住民の有志で構成する団体を結成し、いわゆるコミュニティ福祉運動を開始したことである。現在はこれが長後と湘南台の2つに分かれて活動している。
もう一つは地域作業所の第1号を開設し施設づくりをスタートさせた。これが、現在の光友会へと発展したのである。

一般事務職点字試験と障害者特別枠採用制度

馬渡藤雄

1.一般事務職採用試験(点字)

1980年頃雇用を進める会が、県に対し一般事務職採用試験を点字で受験できるようにと要望したところ、県は「別に、拒否しているわけではない、希望者があれば実施する。」と答えた。 そして、1982年、中級職に点字で受験した全盲者が合格し、労働部に採用された。 当時、点字による採用試験を実施している地方自治体は、東京都の福祉職Cおよび和歌山県のみであった。 1991年、国家公務員行政職?種および?種(上級職、中級職)採用試験に点字受験が認められて以来、徐々に地方自治体に波及し、今日では北海道、宮城県、東京都および23区、京都府、大阪府、大阪市、福岡県等で実施されている。 神奈川県では、1982年の採用につづき1985年に弱視者が拡大読書機を用いて、中級職に合格採用され、更に1990年と1991年に全盲者が点字受験し、それぞれ上級職に合格採用された。結局、神奈川県では過去16年間に4名の視覚障害者が合格、採用されたにとどまっている。一般事務職が狭き門であることは否めない。 県当局は、障害者の処遇について、異動と昇進管理に苦心しているといっているが、現在、前記の人たちは、農政部農水産課、出納庁出納施設課、都市部整備課、福祉部健康保険課の職場に配置されている。一般に県職員は2、3年で異動しているが、障害者は4、5年で異動させている。いわゆる、障害者だからといって福祉関係職場に限定しない人事は、高く評価してもよいのではないかと思う。 なお、県教育委員会は、中・高校教員の採用試験も点字受験を認めているが、未だに1名の合格者も出していない。

2.障害者特別枠(身体障害者を対象とする神奈川県職員)採用制度

神奈川県が特別枠採用制度を発足させたのは、国際障害者年の始まりの年、1981年であった。10年間で知事部局職員の3%を雇用すると目標を設定した。 翌1982年、横浜市も20年間で4%の障害者を雇用するとして、特別枠採用制度を発足させ、同じく川崎市も10年間で3%を雇用する制度を発足させた。 神奈川県、横浜市、川崎市のいずれも今日では、目標をほぼ達成している。 しかし、ここで考えなければならないことは、障害者特別枠採用制度が出来たからといって、視覚障害者が採用されるとは限らない。否「活字に対応できるもの」という条件を設け、重度視覚障害者を排除する例が普通に行われていることを認識しなければならない。 本会は、県に対し常に新たな職種を掲げてその採用を要望してきた。すなわち、電話交換手、福祉相談員、録音タイピスト(ワープロ速記者)、ヘルスキーパー、病院マッサージ師、はり・きゅう師、特別養護老人ホームマッサージ師、障害者施設マッサージ師、老人保養所マッサージ師、点訳指導員、一般事務職、図書館職員等々である。その大部分が、県の受け入れるところとなり採用が実現した。我々が、具体的な職種を示して理解を求め要望した結果、神奈川県、横浜市、川崎市、県の外郭団体等に約70名の視覚障害者が雇用されている。 ところで、特別枠採用制度にも、いくつかの問題点がある。我々は、その解決に向けて県当局と粘り強く交渉を重ねてきた。

(1)居住制限

これは当局が、住民への利益還元を主張するための制限であるが、職種によっては、これをはずさないと良い人材が得られない場合がある。

(2)年齢制限

現在は事務職30歳、電話交換手やマッサージ師のような技能職については39歳までに引き上げさせた。

(3)非常勤採用

我々は、障害者の雇用促進といっても不安定な身分を求めているわけではない。そこで、非常勤採用の録音タイピスト、福祉相談員、養護学校ヘルスキーパーについては、常勤化させることができた。しかし、点訳指導員については未解決である。横浜市のワープロ速記者と、特別養護老人ホームマッサージ師については、当局が業務量が少ないといって頑強に常勤化を阻止している。

(4)初任給格差

特別枠採用者は、一般公募の採用者より1号下位からスタートしていた。我々は、長年、その是正を県に要望してきた。その結果、1998年から一般公募採用者と同様に格付けされることになった。

視覚障害者技能習得援助資金貸付事業

馬渡藤雄

この事業は、中途視覚障害者で盲学校等であはき(あん摩・マッサージ・指圧・はり・きゅう)を学ぶ学生に月額4万5千円を貸し付ける、いわば一種の奨学金制度である。しかも、卒業後あはき師(あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師)の免許を取得すれば、返還が免除される特典付きである。
盲学校等とは、神奈川県民で盲学校の学生はもちろん、視障センターの入所生や、はり・きゅうの専門学校の在校生を対象とするのである。
そもそも、この事業は1979年頃、神奈川県立平塚盲学校専攻科理療科に在学中の一学生の素朴な疑問から始まった。それは「中途障害者で職業訓練校(現:職業能力開発校)の訓練を受ける者には、月額10万円以上の訓練手当てが支給されるのに反し、同様に盲学校で、あはきの職業訓練を受けているのになんらの手当ても出ていないことはおかしい。国が駄目なら、県の単独事業で救済して欲しい。」というのである。
雇用を進める会は、これを県との交渉課題にのせ、交渉を重ねた結果、1981年度から月額3万円が貸し付けられることになった。しかし、生活保護世帯には収入と認定され、保護費が削減されるので意味をなさない。それで本会は、再三再四、収入認定しないようにと要望したが、いまだに解決をみていない。
また、金額についても、職業訓練手当とは比較にならない低額なので、以後、一貫して増額を要望してきた。県は職業訓練手当の増額に連動して引き上げてきた。すなわち、
1981年  3万円
1983年  3万3千円
1986年  3万6千円
1989年  3万9千円
1992年  4万3千円
1995年  4万5千円
そして、1996年、県は、印紙税に見合う3千円を就労支度金として、最終貸付時に加算することとなった。

福祉職採用の経過

田中重幸

1977年に雇用を進める会結成後、労働部長を窓口に進められた交渉により1978年の老人保養所の採用に引き続いて翌1979年4月には、民生部(現:福祉部)の中央児童相談所に福祉職として採用が実現した。本会の要望が福祉相談員ということであった為児童相談所への配属となったが、部の採用方針としては福祉職の新人はまず施設現場に配属するのが一般的であることから考えると、当局側に本会への配慮があったものと思われる。
採用第1号は弱視者であったが、その後も本会としては重度視覚障害者の雇用に重点をおいた交渉を進めていった。その結果、1983年4月には点字使用者の婦人相談所への採用が実現した。点字使用者の採用により、現場では障害者が業務を行う上での配慮を余儀なくされ音声対応機器の整備、ワークアシスタントの配置をはじめ様々な試みがなされていった。勿論、こうした試みは障害当事者の現場での訴えが基になって行われたものだが、「いのくら」(県民のいのちとくらしを守る共同行動委員会)交渉における本会の主張が県側を動かしたことは明らかである。
婦人相談所に採用されたSさんは、1989年に中央児童相談所に異動となったが、新たにNさん(点字使用者)が婦人相談所に採用となり、この時点で福祉職の視覚障害者は弱視1名(現:総合療育相談センター)、点字使用2名(現:中央児相談所、婦人相談所)の計3名となった。その後、婦人相談所のNさんが1994年3月に退職し翌1994年7月にKさん(点字使用者)が後任に採用された経過があるが全体数は3名のままである。

福祉職の場合、職場によって業務内容が大きく異なることから、その中で視覚障害者がどのように自己の仕事のスタイルを確立するか、また、周囲のスタッフと連携をどのように図るかといった課題があることは確かであるが、運動面においては、これまでの実績を大切にしながら職域の拡大に連動した新規採用の実現を図る必要があると思われる。
なお、本会の運動により県に採用された人達は、その後、県職員の立場での様々な障害者問題に取り組み、労働組合運動の中で運動を具体化していった。その成果は「自治労県職労ノーマライゼーションを進める会」として組織化されている。

神奈川の図書館職員

馬渡藤雄

神奈川県の図書館職員雇用運動は、1976年神奈川視力障害者の生活と権利を守る会が取り組んだ、川上正信さんの横浜市市立図書館への採用を求める運動が最初であった。同会の横浜班は、かねて横浜市に対し、市立図書館が所蔵する膨大な資料を視覚障害者が利用できるよう点字化、テープ化および対面朗読などを要求していた。そして、その視覚障害サービスは、視覚障害者自身が担当することが望ましいと彼の採用を求めた。
当局は当初、視覚障害者には「点字図書館があるではないか。」として拒否していた。同会は、市人事課や教育委員会との交渉を重ねるとともに、横浜市従業員組合教育委員会支部の協力も得た。
更に、雇用を進める会結成以後は、五十嵐会長や社会党市議団の応援も得て総務局長交渉を持ち、ついに、飛鳥田市長の裁断によって、彼のために採用試験が行われ、1978年10月、市立戸塚図書館に採用された。

川上さんの存在は、サービスの質を飛躍的に向上させたので公共図書館への視覚障害者雇用の重要性を広く認識される結果となった。 やがて、1994年中央図書館が開館し、視覚障害サービスが戸塚から中央へ移転するのに伴い、更にもう1名の視覚障害者が採用された。
ちなみに、現在全国の公共図書館の視覚障害職員は、15自治体に18名である。神奈川県には点字図書館(正確には視聴覚障害者情報提供施設)が4館ある。
神奈川県ライトセンターは、1974年、点字校正員として1名の視覚障害者を採用し、以後1981年と1983年にそれぞれ1名ずつ全盲の視覚障害者を採用した。うち1名が退職したのち、本会は、後任の補充を求めたが一向に行われなかった。その後、更に1名が退職し1988年に1名が採用され、そして、1994年ライトセンターが新築され、体育施設が併設されたのに伴い係員として視覚障害者1名が採用された。現在、ライトセンターには週1回の非常勤点字校正員と合わせて4名が勤務している。

川崎市盲人図書館は、1974年、開館時全盲の視覚障害者1名を採用し、他の職場から配転の弱視者と合わせて2名が勤務していた。その後、ともに他の職場に配転され、1990年と1997年にそれぞれ全盲者1名ずつが採用された。 その他、横須賀市点字図書館と藤沢市点字図書館に、それぞれ1名の視覚障害者が勤務している。

結局、神奈川県の視覚障害図書館職員は、横浜市中央図書館2名、県ライトセンター4名、川崎市盲人図書館2名、横須賀市、藤沢市の点字図書館にそれぞれ1名、合計10名である。
ちなみに、全国約70館の点字図書館の視覚障害職員は約90名といわれている。

点訳指導員の採用を巡って

神崎好喜

1994年2月、神奈川県福祉部障害福祉課長から電話があった。「視覚障害県職員に配付する文書を点訳するため、点訳指導員を障害福祉課に非常勤職として置きたい。その仕事は、各課が作成した文書を、その課の職員が、パソコンで点訳する際の点字やパソコンの指導だ。それらの知識と技術のある人を推薦して欲しい。勤務は週30時間程度で給料はあまりよくないし、本来、障害福祉課に置くべきではないかもしれないが、文書課への配置や初めからの常勤化は難しい。その点を理解の上協力して欲しい。」というのだ。
即座に決断したことは、非常勤とはいえ県職員である以上、人事権は県にあり、紹介はするが推薦はしないということと、できれば複数者を紹介し、誰を採用するかは県に任せたいということである。その他については、検討させてもらうことにした。
雇用を進める会常任幹事会では、やはり勤務条件の悪さが問題になった。しかし、過去の例から3年後には常勤化されるだろう、視覚障害県職員にはいい話だ。ということで、この要請に協力することとした。そして、

仕事内容からパソコンや当時実用化された視覚障害者用OCRに明るい人、
できれば神奈川県在住の人、
いない場合は近隣都県在住の人、

を条件に希望を募った。しかし、この条件を満たす人は、そう簡単にはいなかった。そしてようやく、県内在住の2名の希望が出た。1名は、男性でパソコンには明るいが、理療科在学中のため資格取得をあきらめなければならない。もう1名は、女性で録音タイプの訓練も受けているが、OCR操作は難しい。そこで苦しい選択の結果、内部的にはまず男性を押すこととし、障害福祉課へは並列で紹介した。
結果的には、Sさん(男性)だけが面接を受け、5月に採用された。この採用には、次のような評価すべき背景がある。
その第1は、視覚障害者にも使え、視覚障害者を利するパソコンのハードとソフトができたこと。
その第2は、視覚障害者の情報アクセス権が確立されてきたこと。
その第3は、本会の永年に渡る要求が結実する時期を迎えたこと。
その第4は、本会の運動で40人を越す視覚障害県職員が誕生し、文書点訳の必要性が高まったこと、つまり「視覚障害者雇用が、新たな視覚障害者雇用を産んだ。」ということである。

しかし、未解決の問題もある。
その第1は、未だに常勤化されないということだ。本会の経験では、非常勤者は、いくら長くても3年で常勤化されてきた。県は、業務量が少ないことを理由に上げているが、当初のつまづき(文書課配置ができなかったことと、非常勤だったこと。)がネックとなり、障害福祉課と人事課とのキャッチボールで、遊ばれているようにさえ思える。
その第2は、パイプがどこで詰まっているのかわからないが、視覚障害県職員の思うような点訳が、未だに実現されていないということだ。点訳指導員の業務拡大・配置替えを含む有効活用、文書点訳の制度的確立と全庁的周知徹底、そうした抜本的な整備が必要だと思う。

これらの問題を打開すべく、本会は1996年の「いのくら」(県民のいのちとくらしを守る共同行動委員会)の副知事交渉に、この課題を乗せた。それにより、関係各課との話し合いのレールを敷くことはできた。今後必要なことは、本会と県と視覚障害県職員が、同じテーブルに着き、抜本的検討に入ることである。それ抜きでは、常勤化も潤沢な点訳も実現しないのである。

電話交換手の状況

馬渡藤雄

かつて、視覚障害女性の花形職種であった電話交換手もダイヤルインサービスの普及により、最近急激に雇用の場が狭くなった。
神奈川県の電話交換手は、1969年日本ライトハウスが電話交換手の養成を始め、そこで訓練を受けた2名の女性が、1972年の重度障害児療育施設ゆうかり園と国立特殊教育総合研究所に採用されたのが最初である。
1977年雇用を進める会が結成され、県や横浜市、川崎市に視覚障害者の雇用促進を訴えたとき、視覚障害者の最適職種の一つに取り上げられたのは、電話交換手であった。
1980年県は、障害者特別枠採用制度を発足させ、まず電話交換手2名が採用された。以来、毎年2乃至3名が採用されたが、バブル崩壊で県財政が厳しくなった1992年以後は、毎年わずか1名の採用にとどまっている。

一方、横浜市は1982年障害者特別枠採用制度を発足させ、毎年2乃至3名、ピークの1983年には4名を採用した。しかし、1988年頃から区役所のダイヤルイン化がすすめられ、交換台が廃止されて電話交換手の配転、退職が相次いだ。現在は、各区役所に2名ずつ配置され案内、交換、庶務に当たっている。現在、横浜市の視覚障害電話交換手は、4名(全盲1名、弱視3名)のみとなってしまった。

川崎市では、福祉センターの開設に伴い1975年と翌1976年に1名ずつが採用された。更に1981年に市立病院に1名が採用され、1984年にも市立井田病院に1名採用されたが1990年に退職したので、現在は3名だけである。

神奈川の視覚障害電話交換手は、県に27名、横浜市4名、川崎市3名、その他民間では横浜銀行、丸井、資生堂、東急ホテル等に雇用されているものを合わせると、総数約40名と思われる。
県が比較的回線の少ない地区行政センター、県立病院、保健所、県税事務所、土木事務所等に視覚障害電話交換手を配置していることは、いわゆる定着に大いに貢献していると評価できる。

神奈川県のあはき職

馬渡藤雄

視覚障害者の雇用運動といえば、ときに「あれはエリート盲人の就職運動ではないか」との批判を聞くことがある。
しかし、我が雇用を進める会の運動にはこの批判は当たらないのである。そもそも、本会結成の動機は、横浜市立盲学校専攻科理療科学生たちの「我々にはなぜ病院マッサージや、開業しか道がないのか」という疑問から始まったからである。本会があはき(あん摩・マッサージ・指圧・はり・きゅう)の職域開拓に力を注いだのはけだし当然の成り行きであった。

1978年の年初卒業期を控えた学生たちの要望を一身に担った五十嵐会長らは、県労働部と折衝を重ねた結果、3月も終りに近い頃いくつかの成果をあげることが出来たのである。すなわち、1978年4月県の外郭団体である神奈川県社会福祉事業団が経営する県立老人保養所にマッサージ師2名を採用させた。県内には老人保養所は4ヵ所あり、その内逗子海風荘と三崎万寿荘にそれぞれ1名ずつ採用されたが、仕事は保養所に宿泊する60歳以上の老人に低廉な料金(2,500円)でマッサージを施すのである。しかし、残念ながら万寿荘のマッサージ師は1997年病気のため死亡したので、本会では後任補充を県に要望している。

本会は結成以来、終始あはき職の職域開拓を県に要望し、交渉を積み重ねてきた。以下あはき師(あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師)の主な職域と雇用状況を列記する。

県立老人保養所 マッサージ師 1名
逗子海風荘 1名(1978年)
神奈川県総合リハビリテーション事業団 はり・きゅう師 3名
七沢リハビリテーション病院 脳血管センターはり・きゅう師 1名(1979年)
はり・きゅう師ヘルスキーパー兼務 1名(1986年)
神奈川リハビリテーション病院 東洋医学科
はり・きゅう師ヘルスキーパー兼務 1名(1984年)
県立病院マッサージ師 2名
足柄上病院 1名(1982年)
厚木病院 1名(1982年)
県職員を対象とするヘルスキーパー 3名
健康管理センター 1名(1981年)(県立福祉施設巡回)
中途視覚障害者復職 1名(1991年)(県立ひばりが丘学園常駐)
県立三ツ境養護学校 1名(1985年非常勤、1988年常勤)(県立障害児学校巡回)
重度肢体障害者療護施設 1名
県立さがみ緑風園 1名(1982年)
県立障害児学校 1名
県立平塚養護学校 機能回復訓練担当 1名(1982年)
県特別養護老人ホーム 1名
相模原養護老人ホーム マッサージ師派遣事業 1名(1990年)
横浜市特別養護老人ホーム 非常勤 2名
磯子ホーム 1名(1983年)
岩井ホーム 1名(1988年)
横浜市養護老人ホーム 非常勤 2名
名瀬ホーム 1名(1997年)
恵風ホーム 1名(1997年)

行政機関におけるヘルスキーパー、雇用を進める会の経験から

神崎好喜

神奈川県に、非常勤ながらMさん(男性、弱視)が、初めてヘルスキーパーとして採用されたのは1981年、県庁内の健康管理センターで業務が始まった。しかし、一向に、需要が出ない。PRの不足や隣人への気兼ねが原因のようだった。そこで、需要が見込まれる福祉施設への巡回が始まり、業務量も増え2年後には常勤化された。

次いで、雇用を進める会は、神奈川県教育庁に対し、主に県立養護学校の教職員を対象とした、ヘルスキーパー採用要求を掲げた。要求の根拠は、?知事部局には、既にヘルスキーパーが採用されていること、?特に、養護学校の教職員には腰痛が多く、ヘルスキーパーへのニーズが高いことである。

養護学校でのヘルスキーパーの有用性については、以下の実践があった。
第1は、横浜市立盲学校専攻科の教育課程に、位置付けられていた校外臨床実習で、生徒が横浜市立の養護学校へ出掛け、そこの教職員を対象に実習を行っていたことである。当然のことながら、治療効果は上がっていたし、受療者の評判も良かった。
第2は、神奈川県立平塚盲学校が、近隣校の教職員に行ったアンケートである。これは、教職員が持っている症状、あはき(あん摩・マッサージ・指圧・はり・きゅう)の受療経験、受療希望と希望を阻害する要因等を調べたもので、その主な点は、養護学校の教職員の方が、他の教職員より腰痛や肩こりの症状が多いこと、症状が強い教職員ほど、あはきの希望が高いこと、受療希望を阻害する要因は、施術料金の高さや帰宅後も開いている施術所がない等のことであった。

この実績を手に、神奈川県教育庁と交渉した結果、腰痛予防対策事業の中に、腰痛体操やマッサージの指導を加え、非常勤マッサージ師を採用するということになり、1985年4月にSさん(男性、弱視)が、ヘルスキーパー第2号となった。その後のことにも関係するので、あえてここに記すが、当事の学校保健課の主管は、あん摩マッサージ指圧師だけでなく、はり師、きゅう師の資格を持った人を望んでいた。これは本会に、いずれ、はり・きゅうも導入するという強い示唆を与えるものであった。

Sさんは、組織的には指導部学校保健課(本来は県立学校の児童・生徒の健康管理を担当する部署)に配属されて三ッ境養護学校に駐在し、実際には、曜日ごとに養護学校を巡回することになったのだが、卒業早々のSさんには、養護学校の教職員を対象とした、公務員ヘルスキーパーとして、何をすればいいのかも不明確な状況であり、大変厳しい日々であったことだろう。それに、1年たっても2年たっても常勤化のめどがみえてこないのだ。

本会は、ともかく、常勤化を最優先課題として交渉・折衝を重ねる一方、トップダウンも模索、最終的には「いのくら」(県民のいのちとくらしを守る共同行動委員会)の副知事交渉に乗せた。そして副知事から、「ヘルスキーパーは、他県にないもので効果を上げている。1988年4月から常勤化する。」との解答を得た。これにより、長かった3年の常勤化運動が勝利したのだ。そして、残った課題が、複数化とはり・きゅうの導入である。

ある時期、学校保健課は複数化の可能性を匂わせたことがあった。しかし、未だに実現していない。それより重大なのは、前述したはり・きゅうの導入の示唆だ。学校保健課は、マッサージは予防だが、はり・きゅうは治療。治療の面倒まで、雇用主が負うのは、おかしいと言っている。
この問題を巡る本会と同課との交渉は膠着状態にある。どういう着地点になるかはわからないが、ともかく、これまでとは、違う切り口での交渉を行わない限り、解決を図るのは難しい。ヘルスキーパーの業務のあり方も含め、再度運動を立て直す必要がありそうである。

特別養護老人ホームへのマッサージ師配置

神崎好喜

特別養護老人ホーム(特養)の設置規準に、機能回復訓練指導員の配置がある。厚生事務次官通達では、この業務に当たるのは、理学療法士や作業療法士が望ましいとされている。しかし、同時に、「当分の間、マッサージ師や看護婦を当ててもいい。」とも謳われている。
この通達を具体化した事例が東京にあった。東京都福祉局は、特養がマッサージ師を雇用して機能回復訓練指導業務に当たらせた場合、その特養にマッサージ師の人件費を補助する制度を設けている。現在では、都内の特養は220ヶ所、うち60名が全盲のマッサージ師だという。

視覚障害あはき師(あん摩マッサージ指圧師・はり師・きゅう師)の就業環境の悪化につれ、盲学校の進路指導職員や雇用促進運動家は、あはき(あん摩・マッサージ・指圧・はり・きゅう)による新たな職域開拓に力を入れた。その一つが、この特養マッサージ師だ。当然、雇用を進める会も、神奈川県内の特養での視覚障害あはき師雇用に向けた運動に取り組んだが、それは一言で言って茨の道だった。
本会の要求は「県立特養へ視覚障害あはき師を採用すること。」であるが、「あはき師=あん摩さん、あん摩は、個人の趣味だ。」という認識しかない県にとって、この要求の理解は、いかにも難しかったようだ。特養で、あはき師が何をするのか、あはき師に訓練ができるのか等々、本会は盲学校のカリキュラムや現に特養で働いている事例を示して、そうした無知ゆえの疑問、差別的思考を順々に解いていった。時には、「訓練の必要な入所者は少ない。」という老人福祉課(現:高齢者施設課)の課長代理に「お前は医師か?医師でもないお前に、何で医学的判断ができるのか?俺は、独立開業権のあるあはき師だ。無資格のお前より、俺の判断の方が有効だ。」と怒鳴りつける場面さえあった。

こんなやりとりから、老人福祉課が考え出したのが、特別養護老人ホームマッサージ師派遣モデル事業(モデル事業)である。1989年春、本会に「県立特養でマッサージ師を採用するのは、需要や定数の関係で難しい。その代わり、民間の特養が、マッサージ師を雇用して近隣の特養にも巡回させれば需要も出る。そうした事業に依託費を出す。」という話があった。そして具体的な雇用先(相模原老人ホーム)と巡回先の特養の名称も示された。

本会は、この話を了承し、県内3盲学校へ求人案内をするよう求めた。その結果、その年の夏に、県内3盲学校に相模原老人ホームで説明会が行われた。
そして、翌年1月に面接があり、同年2月にKさん(男性、弱視)が採用内定となった。Kさんは、学友会の会長で、本会の運動の経過や、この事業が県内全域へ拡大を図るモデルであることを十分心得た人だ。故に、この話は順調に進むかにみえた。ところが、内定直後、Kさんが急死したのである。担い手がいなければ、この事業は始まらない。急死したKさんへの思いを残しつつ、関係者は頭を悩ませた。そしてようやく、採用は遅れたもののTさん(男性、弱視)という別の担い手を探し、これまでの経過やこの事業の意味を説明し、働き出してもらった。

その後、県と本会は、モデル事業の実施状況を共に見守ってきた。当然のことながら、入所者の評判はいい。問題は巡回先の多さである。これを解決する最良の策はマッサージ師を増やすことだ。それは、視覚障害者の雇用促進にもなる。本会は、一貫してその方向を取り続けてきた。
しかし、予期しないことが起きた。その第1はTさんの退職、第2は県財政の悪化だ。前者については、別のYさん(男性、弱視)の出現で対応できた。しかし、問題は後者。依託費カットの折から事業の具体的効果を早急に出さなければならない。これまでにも、いろいろな手法で効果評価をしてきたが、より厳しい財政当局からの絞め付けがある。どうしたら、マッサージという効果判定の難しい、心への作用も大きなものの意味を財政当局に理解させるか、それなりのデータと理論構築が必要であろう。

これまでの要求から

雇用を進める会の歴史は、主に神奈川県への雇用要求を綴ることにより、その足跡を知ることが出来ます。ここでは、「いのくら」(県民のいのちとくらしを守る共同行動委員会)から提供されたかつての本会の要求項目を抜粋して掲載します。資料としてご利用下さい。

'78要求事項から

【労働部】

'79要求事項から

【衛生部】
【福祉部】
【労働部】

'83要求事項から

【衛生部】
【神奈川県教育庁】
【福祉部】
【労働部】

'93要求事項から

【衛生部】
【神奈川県教育庁】
【福祉部】
【労働部】

'97要求事項から

【福祉部】
【労働部】

構成団体紹介

横浜市立盲学校「学友会」

会長 野口征三郎

本「学友会」は、「雇用を進める会」が結成された1977年当時は、横浜市立盲学校理療科「学生会」と称し、雇用に関する自主活動を展開しつつ、以来「雇用を進める会」を構成する各団体からの支援を受けてまいりました。現在の学友会は、専攻科生徒としての自主的活動により、現在および将来にわたる種々の問題の解決、学習、また、会員相互の親睦を図ることを目的としています。
会員は、本校に在学する高等部専攻科理療科並びに保健理療科の全生徒をもって構成し、年齢層は18歳〜62歳までとバラエティに富んでおります。
現在の学友会の会員数は、33名で、そのうち4名が女性です。本校の普通科から上がっている者の他に、中途視覚障害者が増える傾向にあります。役員としては、会長1名、副会長1名、執行委員若干名、会計監査2名を置き、各クラスに1名の代議委員を選任して、更に本校職員よりなる顧問団を設置して本会を運営しております。
以上、本学友会の概要について申し述べました。「雇用を進める会」の発足以来、皆様方には、数々のご支援を頂いたことに厚く御礼申し上げ、引き続いてのバックアップをお願い致します。

神奈川視力障害者の生活と権利を守る会(略称:神視障守る会)

会長 飯島 清

本会は、1969年に発足し、今年で28年目を迎えます。会員は130名です。本会は、個人の要求を結集し、解決のために粘り強い活動をしています。今日までに次のような成果をあげることができました。

また、全国の仲間とともに視覚障害者の教育、福祉、雇用などで各省交渉、国会請願等をおこない成果を上げています。
最後に本会の活動についてご説明します。まず、要求実現行動は会員一人ひとりの要求をすい上げ実現に向けて行動します。また、同じ要求を持つ他の団体と協力します。学習活動、情報宣伝活動は毎月会報(点字、墨字、テープ、フロッピー)を発行、レクリエーションやスポーツにも取り組んでいます。 これからも雇用を進める会の構成団体として頑張っていきますので、よろしくお願いいたします。

ベーチェット病友の会神奈川県支部

事務局長 冨田祐二

私たちの友の会は、昭和47年4月に結成され今年で26年目を迎えています。その時の会員数は78名でした。当時の記録を読んでみますと、働き盛りの若い人達がこの病気で失明してしまう事態となり、大きな社会問題となり、患者さんやその家族は無論のこと、先生がたも一緒になっての努力が実り、友の会が出来たとしています。行間からその労苦が滲み出るように感じ取れます。
それから4半世紀余り経過した今日では、行政に対しての先輩達の働きかけにより、病因や治療の研究体制が整い、あるいは治療費の公費負担制度が設けられるようになり、周囲を取り巻く環境も大きく変わってまいりました。
現在会員数は180名になります。主な活動としては、年1回医療講演や医療相談、会員とその家族らの懇親旅行、それによって会員同士の情報交換の良い機会となっています。また、会報を年4回発行しています。
最近は症状が軽くなった、患者数が少なくなったと耳にしますが、実態は依然変わらないように見えます。半年の間に新しく会員になった方々が20名いらっしゃいます。この方々は確かに症状が軽くなっていて、現時点では失明された方はありません。そうは言っても患者は先行きを心配し、不安をもってしまいます。会としても明るい前向きな話題や情報を会員に提供することで、豊かな心で生活が出来るよう友の会の委員らが活動に取り組んでいます。

視覚障害者職業問題研究会

会長 叶 政勝

本会は1979年に横浜市立盲学校理療科卒業生が中心となって発足しました。職場の「環境改善・諸問題の解決など」に取り組み、「相談、研修、交流」などの活動を地道に続けています。

★『まずはグチを言うことからはじめよう』‥‥就労後のフォロー

職場での問題点を出し合って、一歩でも解決に向って共有のものとして考えていく仲間がここにいます。これが本会の原点であり理念です。

★『多くの仲間に広げよう』‥‥雇用を進める会を通じての活動

より多くの視覚障害者の「?生活向上のために、?問題解決のために、?就労拡大のために」雇用を進める会を通じても微力ながら活動しています。
本会は仲間みんなで創りあげる会です。
横浜市立高等学校教職員組合
委員長 飯田 洋
横浜市立の全日制普通科高校・職業高校、定時制普通高校・職業高校に横商別科(理容・美容科)、さらに盲学校・ろう学校、養護学校の教職員約 800人で組織され、組合組織率95%と高い組織率を誇っています。
また、市費と県費の教職員、実習教員や事務職員などの少数職種、青年部・女性部など多様な要求を持つ教職員が、学校や職種のちがいをこえて、生徒・児童に豊かな教育を保障して、すべての教職員の生活と権利・労働条件を守り発展させるという共通の目的のために団結しています。
私たち教職員の権利を守る活動はもちろん大切ですが、それとともに生徒・児童の豊かな人間的成長を願って、教育研究や生き生きとした学校づくりを重視しています。また、それらのために、施設・設備などの教育諸条件を改善・充実させたり、平和と民主主義を守り育てるとりくみも重要なものと考えています。
障害者の労働権・生活権の拡大のため、「視覚障害者の雇用を進める会」とともに、障害者の雇用・就労・自立をめざすとりくみをしています。

神奈川県総合リハビリテーション事業団労働組合『障害者雇用を考える委員会』

副委員長水上 守

『進める会』結成20周年おめでとうございます。私の属する組合は、職場が医療機関と福祉施設とを有する総合施設なので、その活動は職員の賃金や労働条件の改善にとどまらず、入院・入所者が当センターを利用するにあたっての生活面も含めた、様々な問題点の改善に取り組んでいます。
また全職員中、障害者の占める割合が比較的多いということもあって、組合の中に『障害者雇用を考える委員会』を設置し、自分を含む数人のメンバーで障害者にかかわる諸問題改善に向けての取り組みを行っています。
雇用を進める会が発足してから、この20年の間に、私を含めた4名の視覚障害者が、このセンターで働くことができました。しかし現在、神奈川県は財政困難を理由に、人員をはじめとして各執行予算の大幅な削減を実行しようとしています。このことは、私の職場でも例外ではありません。さらに、今後この傾向は、公民に関わらず、全ての労働者に重くのしかかってくることは、益々必至となるでしょう。言い替えれば、これから就労する障害者にとっても、運動をしていく側にとっても、より一層厳しい現実に立たされてしまったということです。
最後になりますが、この厳しい現実の中にあって、現在就労している私達のすることの一つは、雇用を進める会とともに歩み続けるということを「暗黙の約束ごと」と考えることでしょう。結成20周年の節目にあたり、新たな気持ちで取り組ませていただきます。

ライトセンター労組の10年

副委員長 井上誠剛

昭和62年6月、当センター労働組合が産声をあげました。発足当時の組合員数は4名で、本当に、何をどうすればよいのか、かいもく検討もつかない状態の中での出発でした。
神奈川県ライトセンターは、神奈川県が設置し、日本赤十字社神奈川県支部が運営するという形をとっています。ですから、人件費を含め100%神奈川県が出資していることになります。ただし、働いている職員の身分は、日本赤十字社の職員とはなっています。
ご多分にもれず、当センターも所長が「天下り」という人事になっています。
このような特殊性から、過去何回も団体交渉を行ってきましたが、その都度、「日赤の本社に従う。」とか「県の方針だから。」という理由で、責任の所在がはっきりせず、実のある解答がなかなか得られません。
そこで、我々は、先ず自治労に加盟をしようということになり、さらに日赤労組に加盟することになりました。
組合としては、現在は、まだまだ組合員数も少なく、なかなか思うように動けず悩んでいますが、職場内で組合員数を増やし、職場での足場をしっかり固め、利用者に対してよりよいサービスを提供できる、施設作りをして頑張っていこうと考えています。

横浜市教職員組合(浜教組)

執行委員長 福寿弘明

浜教組は、1947年、戦前の教育に決別し民主教育を築くことを目指して、横浜の全教職員が結集した教職員組合です。
教職員組合には、2つの大きな運動の車輪があります。1つは組合員の権利を守り広げる車輪、もう1つは教育の充実を図る車輪です。前者は一般の労働組合と同様ですから、教職員組合が教職員組合である所以は、むしろ後者にあるのです。浜教組は、「はまの教育」に責任を持つ組合として、2つ目の車輪を重視しており、教育環境の整備、教育内容や教育方法の充実に向けて取り組んでいます。
浜教組が、雇用を進める会に加入したのは1993年、横浜市立盲学校に浜教組の組織ができた年であり、現在は、雇用を進める会の重要な役員を送り出させて頂いております。雇用を進める会を通して視覚障害者の雇用拡大の運動に取り組むことは、浜教組の2つ目の車輪、すなわち教育運動を進め、更に卒業後の障害者の職業自立を支援することであり、地域住民や広く市民との共闘を重視する浜教組にとっても重要な運動の一つです。とりわけ雇用を進める会は、これまで20年間の歩みの中で大きな成果を上げ、各方面から高い評価を受けています。そうした政策提言型・自らに責任を持つ運動体の中で運動できることは、組合としての浜教組にとっても有意義であるばかりでなく、他の障害者の進路指導や進路開拓にも好影響を与えるものと信じています。
今後益々の雇用を進める会の活躍に期待するとともに、一層連携を深めてまいります。

神奈川県視覚障害者の雇用を進める会運動の沿革

1977年 5月 神奈川県視覚障害者の雇用を進める会結成(4団体)

会長 五十嵐光雄、副会長 中村紀久雄、事務局長 田中重幸  同 年 6月 県民のいのちとくらしを守る共同行動委員会(略称「いのくら」)に加盟
同 年 同月 県議会請願
1978年    県下37市町村へアンケート調査実施
同年 4月 県立老人保養所にマッサージ師2名採用
同年 9月 第1回総決起集会を開催、デモ行進
同年10月 横浜市立戸塚図書館に1名採用

1979年 4月 県児童相談所に福祉職1名採用

総合リハ事業団七沢病院に非常勤、はり・きゅう師1名採用
同年 9月 全国視覚障害者雇用促進連絡会(略称「雇用連」)結成
同年10月 機関紙創刊号発行

1980年 4月 県身体障害者特別枠採用制度発足 (10年で3%雇用を目指す)

県立病院マッサージ師1名採用
県電話交換手2名採用
県更生相談所非常勤職員1名採用

1981年 国際障害者年はじまる

同年 2月 機関紙「視覚障害者に雇用の場を」第2号発行
同年 4月 県特枠採用の年齢制限を26歳から28歳に引き上げ
視覚障害者技能習得援助資金貸付事業発足(月額3万円)
健康管理センターにヘルスキーパー1名採用
県電話交換手2名採用
ライトセンター職員1名採用(更生相談所から配転)
川崎市立病院電話交換手1名採用
同年12月 中村紀久雄氏逝去(享年41歳)

1982年 2月 学習会開催

同年 4月 横浜市身体障害者特別枠採用制度発足
(20年で4%雇用を目指す)
県一般事務職採用試験中級職に点字受験の全盲者1名が合格 労働部に配属
県電話交換手3名採用
県非常勤録音タイピスト1名採用
県立病院マッサージ師2名採用
県重度肢体障害者療護施設さがみ緑風園にマッサージ師1名採用
横浜市立特別養護老人ホーム非常勤マッサージ師1名
横浜市立大学病院作業員1名採用
横浜市電話交換手2名採用
同年 5月 機関紙第3号(中村紀久雄氏追悼特集)発行

1983年 4月 五十嵐光雄会長の勇退に伴い、新体制となる

新会長 神崎好喜、副会長 馬渡藤雄、事務局長 小泉茂夫
県特枠採用の年齢制限を28歳から30歳に引き上げ
技能習得援助資金が3万円から3万3千円に引き上げ
機関紙第4号発行
県婦人相談所に相談員1名採用
県電話交換手1名採用
ライトセンターに職員1名採用
横浜市立特別養護老人ホーム非常勤マッサージ師1名採用
横浜市電話交換手4名採用

1984年 3月 県録音タイピスト常勤化なる

同年 4月 県電話交換手2名採用
県録音タイピスト1名採用(退職による後任補充)
総合リハ事業団神奈リハ病院に、はり・きゅう師1名採用
県雇用開発協会に事務職1名採用
横浜市立特別養護老人ホームケースワーカー1名採用
横浜市電話交換手3名採用
川崎市電話交換手1名採用
同年 5月 機関紙第5号発行

1985年 1月 シンポジウム「中途視覚障害者の職場復帰」を開催

同年 3月 学習会「三療開業者の実状」開催
同年 4月 県一般事務職中級職に弱視者が拡大読書機で受験、合格採用
県電話交換手2名採用
県立養護学校非常勤ヘルスキーパー1名採用
横浜市児童相談所相談員1名採用
横浜市立学校用務員1名採用
同年 5月 第10回定期総会開く
同年 7月 総合リハ事業団七沢ライトホームに指導員1名採用
同年10月 第2回総決起集会開催、デモ行進
同年11月 県下の視覚障害者就労実態調査を行い、総数63名と職種別就労者数が判明

1986年 4月 技能習得援助資金が3万3千円から3万6千円に引き上げ

県電話交換手2名採用
総合リハ事業団七沢病院に、はり・きゅう師1名採用
横浜市電話交換手1名採用
横浜市一般事務職1名採用
同年 5月 機関紙第6号発行
同年 9月 雇用連との共催でシンポジウム開催

1987年 3月 座談会「ヘルスキーパーは語る」開催

同年 4月 県電話交換手2名採用
県一般事務職1名採用
横浜市一般事務職1名採用
川崎市一般事務職1名採用
同年 5月 機関紙第7号発行
同年 9月 結成10周年記念式典、レセプションおよび学習会「ヘルスキーパーの雇用促進のために」開催

1988年 4月 県立養護学校ヘルスキーパー1名常勤化

県電話交換手1名採用
県一般事務職1名採用
県横須賀児童相談所非常勤相談員1名採用
県立小田原城東高校教員1名復職
横浜市立特別養護老人ホームに非常勤マッサージ師1名採用
川崎市清掃局に作業員1名採用
横浜綱島電報電話局、鎌倉電報電話局に各1名復職
同年 5月 機関紙第8号発行
同年    横浜市港湾局に1名復職

1989年 4月 技能習得援助資金が3万6千円から3万9千円に引き上げ

県横須賀児童相談所非常勤相談員が、県婦人相談所に配転常勤化
県電話交換手1名採用
ライトセンター職員1名採用
横浜市非常勤録音タイピスト1名採用
同年 5月 機関紙第9号発行
1990年 4月 県総務部に上級職1名採用
県電話交換手2名採用
県特養ホームマッサージ師派遣モデル事業開始マッサージ師1名採用
横浜市一般事務職1名採用
川崎市盲人図書館1名採用

1991年 県重度視覚障害者雇用促進プロジェクト事業始まる

同年 4月 県渉外部上級職1名採用
県文書課に録音タイピスト1名採用
県一般事務職1名採用
県電話交換手2名採用

1992年 4月 技能習得援助資金が3万9千円から4万3千円に引き上げ

県電話交換手1名採用
県一般事務職1名採用
県立障害者施設にヘルスキーパー1名復職
伊勢原市事務職1名採用
二宮町事務職1名採用
同年 9月 本会の主導的援助により、日本視覚障害ヘルスキーパー協会設立
結成15周年記念式典、レセプションおよびシンポジウム「ヘルスキーパーの将来像」を開催

1993年 4月 県電話交換手1名採用

横浜市戸塚図書館1名採用
横浜市立盲学校技能員1名採用
川崎市高津区役所一般事務職1名採用

1994年 4月 県電話交換手1名採用

横浜市総務部に非常勤ワープロ速記者1名採用
二宮町事務職1名復職
同年 5月 県非常勤点訳指導員1名採用
同年 7月 県婦人相談所福祉職1名採用

1995年 4月 技能習得援助資金が4万3千円から4万5千円に引き上げ

県電話交換手1名採用
特養老人ホームシャローム(横須賀市)非常勤ヘルスキーパー1名採用

1996年 技能習得援助資金に就労支度金が新設(最終貸付月に3千円加算)

同年 4月 県電話交換手1名採用
同年11月 シンポジウム「視覚障害あはきの未来をひらく、どうするこれからのあはき」を開催

1997年 4月 県電話交換手1名採用

県一般事務職1名採用
横浜市農地事務所一般事務職1名採用
横浜市立盲学校事務職1名復職
横浜市立養護老人ホーム非常勤マッサージ師2名採用
川崎市盲人図書館1名採用

同年 5月 第23回総会にて、神崎好喜会長勇退に伴い、新体制となる

新会長 新城 直、副会長 神崎好喜・馬渡藤雄、事務局長 土屋仁志
機関紙第12号発行
同年12月6日 結成20周年記念式典、レセプションおよびシンポジウム「明日を切り開く視覚障害者」を開催
同年12月7日 職業、雇用問題で電話相談(予定)

編集後記

神崎 好喜

記念誌編集に当たり、私は記念誌に
今後の雇用を進める会の運動構築に役立つ礎となることと
同種の運動を進めている全国の仲間の参考資料となることの2つの意味を与えました。その実現には、「思い出話」はやめ「記録集」とする、執筆者の意向を最大限尊重する、の2原則が不可欠です。
しかし前者については、探しても探しても記録が見つからないのです。記念誌のために記録を残すことが運動の目的ではない以上やむをえない面もありますが、結成当時のアンケート結果や録音タイピスト第1号の誕生など、重要事項を掲載することができませんでした。残念でなりません。
後者については、文体や文字数は決めたもののその他は執筆者にお任せしました。そのため原稿は不揃いで記念誌全体の統一性に欠ける部分はありますが、直接運動に関わった人の「生の言葉」で表現されており、臨場感溢れるものになったと思います。読みにくい点はお許しください。
執筆者が編集委員に偏ったことはいなめませんが、編集委員だから執筆したのではなく、その事柄を語るのに最適な人だったということです。どうかご理解ください。また、初代会長の五十嵐光雄先生には編集委員数名がお邪魔して、あれこれと質問させていただきました。真夏の猛暑の中にもかかわらず、非常に丁寧にお答えいただき、本会結成当初の数年間の流れを何とか文書に止めることができました。本当にありがとうございました。

編集中、「あんなこともやったなあ!」「こんなこともあったんだ!」という感慨が私の脳裏を巡りました。でも、「過去のこと」という感覚ではありません。「現在と未来へのメッセージ」という感覚なのです。この感覚を1人でも多くの読者の皆様にお伝えすること、そして冒頭に書いた意味通りの記念誌を作ることが私の務めですが、はたしてそうなったでしょうか。
最後に、この記念誌を公にする今、執筆者を初め、この記念誌の編集・発行にご指導・ご協力くださった多くの皆様に、心からの感謝の意を表し、編集後記とさせていただきます。

奥付として

書名:雇用運動20年の歩み
神奈川県視覚障害者の雇用を進める会20周年記念誌
発行:神奈川県視覚障害者の雇用を進める会
事務局所在地 横浜市神奈川区松見町1?26番地(横浜市立盲学校内)
事務局 Tel 045-431-1629 Fax 045-423-0284
発行責任者:新城 直
発行日:1997年12月6日
編集責任者:神崎好喜
編集委員:黒木 正、小泉茂夫、田中重幸、馬渡藤雄

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最終更新日:2001年 6月 30日
作成:View−Net神奈川


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